「イニシエーションスピーチ」(2025/5/29)
新たに入会した、近藤宏信会員と大橋正幸会員のイニシエーションスピーチがございました。
皆様よろしくお願い致します。
*近藤宏信会員(2025年4月3日入会)

改めまして皆様こんにちは、先月に入会させて頂きました近藤宏信と申します。本日は私の経歴などの話をさせて頂きたいと思います。
1977年9月18日生まれ。今年48歳年男となります。家族構成は父母姉兄私で5人家族3兄弟の末っ子です。家族構成をこのようをこのように言うあたりでお察し頂けると思いますがバリバリの独身です。武蔵野市生まれ武蔵野市育ち、所謂地元っ子です。
現在は有限会社ケイ・エステイトの副社長という立場なります。社長は先日までこの会でお世話になっておりました私の父である近藤忠男です。従業員は家族5人だけという小さな会社です。東京都武蔵野市で不動産の賃貸・管理業を営んでおります。当社は所謂宅建業者ではないので特に必要ではないのですが「宅地建物取引士」「管理業務主任者」「マンション管理士」という資格を有しております。まあこれは取引業者に対するハッタリで取ったといっても過言ではございません。あとたまに勘違いされるのですが、住まいは実家の目の前ではありますが両親とは別になっております。
性格は実は人見知りで非常に内向的で、何もない時は大抵ひとりで過ごしています。水族館や美術館、博物館などにたまにいくのですが、その時もひとりで行って自分のペースでゆっくりと鑑賞しています。
では、ここからは私の経歴の話をさせて頂きたいと思います。聞いていてあまり愉快な話ではないので基本的には話題に出さないようにしているのですが、私の経歴を語る上ではどうしても外せない事があります。私を見て頂ければわかるとは思いますがアトピー性皮膚炎を患っております。小学校は武蔵野市立井之頭小学校に通いました。幼少期から小学校低学年の時はとにかく事ある毎に泣いていたような気がします。夜寝ている時、ほぼ無意識にあちこち掻いてしまいます。すると朝、掻いた傷から出た血や体液がパジャマとくっついた状態でカサブタになってしまいます。時間に余裕がある時にはお湯につけてふやかせて剝がしたりできましたが、3児を抱える母にとってそのような優雅な日は少なく、無理やり剥がされる日も多くありました。こうなると朝一から号泣です。寝ている間に掻かないようにと手足をベッドに縛り付けられる日もありました。毎朝ひと問答あり、雨が降れば傷にしみると泣きながら登校するそんな日々を過ごしました。
両親は両親でなんとか私のアトピーを治そうととここの病院がいいという噂をきけばそこに、あの温泉が、この療法が、とにかく私を連れまわしました。ただその当時、まあ現在に至るまでですが、そのような中でも私は両親に対しこの体質について恨みつらみの念を抱いたことはだだの一度もありません。こういっては何ですが自分でも不思議なことに、「こんな身体生みやがって!」的な感情を持つことはありませんでした。子供ながらに両親の思いをどこかで感じていたのかもしれません。子供のころは父親がたまに「変われるものなら本当に変わってやりたい」と神妙な面持ちで言っていたのをよく覚えております。
中学は武蔵野市立第一中学校に進学しました。この時はアトピーも比較的落ち着いていたように思います。数代前、いまそこにいらっしゃいます臺さんとかが通っていらっしゃいました頃は結構荒れていたそうですが、私が入学した時には割と落ち着いた校風で、市内公立校の中でも優秀な学校と言われるようになっていました
そうして地元の中学を卒業後、私は受験の結果大東文化大学第一高校に進学しました。通勤通学ラッシュ時間での複数の乗り換えによるストレスか、はたまた他の事由か、はっきりとした原因はわかりませんが高校入学後半年後くらいにそれまで落ち着いていたアトピーの症状が大爆発しました。始末の悪いことに特に顔に大変な症状が出ました。お湯はもちろんボディソープがまたしみるわけです。かといってアトピーなので毎日お風呂に入らないとかゆくなって仕方ありません。
今時は公の場でこういうことをいうと差別が人権がなどと言われてしまうかもしれませんが、はっきり言って見た目は化け物ですね。どう見ても気持ち悪いです。何より本人がそう思っているのですから。ですのでこの時は電車やらバスとか乗ってるときは周りの人達に申し訳ない気持ちでした。こんなのが乗り合わせっちゃってすみませんて。電車の座席が空いても座りませんでした。さらにまぶたの裏側にプツプツと複数の小さなできもののようなものもできました。まぶたの裏がこうなった場合、瞬きをする度、目を動かす度にボコボコになっているまぶたの裏で瞳の表面をこすることになります。その結果角膜上皮剥離というものになりました。多くの人達にとっては青春を謳歌し人生で一番楽しいと言われ、人格形成においても重要な高校生時代、私は人と話したくも会いたくもない、ただ生きてるだけで辛い、そんな日々を送りました。現在のコミュニケーションが苦手で内向的な私の基盤がここで出来上がったわけですね。
そんな状態の中でも何とか内部推薦で大東文化大学の文学部日本文学科に入学することができました。そして一年生の夏休みに転機が訪れます。父親が四国にある病院の話を聞きつけ、そこで治療をすることになりました。その病院は四国の南端にある病院でしたが、噂を聞きつけ全国からアトピー患者が集まっており病床はとっくに溢れており、周辺の民宿から通院することになりました。10日程続けるとアトピーは劇的に改善しました。完治!とまではいきませんが、人として普通の生活を送れるには十分な状態になることができました。
今も見てわかる程度には症状があるので、よく「大変そうだね、辛そうだね」とお気遣いの言葉を頂くことがありますが、アトピーという事象に限って言えば今私は幸せです。もちろんコンプレックスはあります。この皮膚が普通ではないことは当然わかっています。まだ色々と苦労はしています。でも幸せです。なぜなら普通に生活ができるからです。晴れの日に外を気持ちよく歩け、何の躊躇なくお風呂に入れ、夜には目の痛みを感じずに休める。これだけでも私にとってはとてもありがたいことです。
そんなことがありつつも、大学では高校時代の同級生に誘われテコンドー部に入部することになりました。空手を源流とし、韓国発祥の足技を中心とした競技です。ただ誘われるがままに入部したのですが、実はこの大東文化大はテコンドーの強豪校で、先輩の人数は少ないものの皆日本代表選手、またはそれに準じるひとばかりでした。そのような環境で練習を続けていたった結果、そもそも日本での競技人口が少なりこともあり3年生の時に全国学生選手権、全国大会ともに3位の成績を収め、シドニーオリンピック代表選考会にも出場させて頂きました。
その一方学業の方はどうだったかというと、こちらは全く取り組んでいませんでした。大学が埼玉の高坂にあったのでその近辺に下宿をしていたのですが、もともとさぼり癖のある上に独り暮らしをはじめたものですから昼前まで寝て、ゲームをして夕方に部活の練習に行く、の繰り返しの毎日でした。そんな感じでしたので当然単位は全然取れず、一年留年した挙句にあえなく中退する結果となりました。
まともに就職活動もせず、とりあえず宅建を取りハロワに通って、賃貸不動産の営業となり、その後大学の警備員、工務店の営業といくつかの仕事を経験して参りました。そんなある日また目のアレルギーが発症してしまいました。眼科の処方薬も大して効果が無く、仕事も続けられることができなくなりました。また普通の生活が遠のいてしまいましたが、眼科の先生から今の症状に対する新薬の治験への参加を提案されました。実際に薬を使ってみると効果はテキメンでした。その後無事承認薬となり、今でも通年使用しています。私は花粉症も中々なのですがこの薬のおかげで目はまったくかゆくなりません。タリムスという点眼薬です。皆さんもしこの薬が処方されたら私のことを思い出して下さい。
そして社会復帰しようとしていた時、当時母とふたりで会社をやっていた父から「ふたりともだいぶ歳になって大変になってきたのでまだ就職先が決まってないのなら手伝ってもらえないか」と声を掛けられ、父の会社に入社することとなり、現在に至っております。
既に法人会、商工会議所、商店会、地域防災会などに所属し活動させて頂いておりますが、この度新たにロータリー活動にも参加させて頂くことになりました。それぞれの会で活動方針等は違いますが、最終的な目的は地域活性化、社会貢献、そしてその活動を通しての自己研鑽であると考えております。甚だ若輩者ではございますが、ご指導ご鞭撻の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
*大橋正幸会員(2025年4月17日入会)

こんにちは。今年の4月から
三井住友銀行武蔵野エリアのエリア支店長兼吉祥寺支店の支店長に着任しました大橋正幸と申します。本日は、このような機会を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。
話の構成として、①家族構成や住まい②趣味の話、③学生時代④社会人で進めて参ります。
①まずは私の家族構成、住まいの話を簡単にさせていただきます。私は1971年 (昭和46年)生まれの54歳です。家族は妻、大学4年生の長男、大学1年生の長女がおります。現在、自宅は杉並区荻窪に構えております。30歳で結婚して、実家近くの横浜市都筑区にマンションを買って住んでいたのですが、買って2年後に名古屋に転勤の辞令が出てしまい、子供も小さかったので、家族もつれて名古屋に引っ越しました。家を買ったら地方転勤になるという話は、先輩たちから冗談で何回もきいていましたが、まさか自分がそうなるとは思っていませんでした。名古屋勤務は長くなるなと思い、マンションは売却してしまいました。5年経過して東京に転勤で戻ってきたときにあてがわれた社宅が荻窪だった関係で、住むよう になり、家族の希望もあり荻窪に家を買って住むようになりました。もう住んで11年となります。
②趣味は大きく3つありますが、1,陸上競技観戦2,お城などを始めとする旧所名跡巡り3.ウォーキングです。睦上競技の観戦は、長男が中学から陸上競技で800M, 1500Mを本格的に始め応操しているうちに好きになり、トラック競技や大学駅伝とかも見るようになりました。試合に臨むまでの努力と調整、試合での駆け引き、限界まで挑戦する姿に感動してしまいます。旧所名跡めぐりが好きになったのは、名古屋I;転勤した際、学生時代に読んだ司馬遼太郎の小説の中I二出てきた歴史的な場所(桶狭間や小牧長久手など)が身近にあって、興味が湧いたのがきっかけでそれ以来色々と足を運ぶようになりました。ちなみに今のお気に入りの城は、江戸城(いまの皇居)です。とっても美しいです。そしてウォーキングですが、ここ数年、健康意識が高まり、歩くことを楽しむようになりました。休日で特に天気の良い日は気持ちが良く、ついつい距離が伸びてしまうこともあります。例えば、荻窪から吉祥寺を越えて小金井までいき南下して府中まで歩いたり、また新宿から浅草まで足を伸ばしたりすることもあります。時に気の向〈ままに知らない街角を探訪し、結果25〜30キロ歩〈ことがあります。この話をすると驚かれたりすることもあるのですが、こうしたウォーキングを通じて、色々な発見があり、面白く、実はかなりリフレッシュにもなっています。
③次に、学生時代についてお話します。私は横浜市港北区(現都筑区)で育ちました。ちょうど横浜市の端っこで、隣町はすぐ川崎市というところに家がありました。港北ニュータウンの開発が急速に進められており、現在では横浜市営地下鉄(ブルーライン)が通り、商業施設やマンションなどか立ち並ぶ街並みになっていますが、私が子供の頃は山を切り開いた後の土がむき出しになった広大な工事現場 が広がっていました。今その周辺は近い駅でいうと、横浜市営地下鉄のセンター北駅やセンター南駅になっております。会社員の父は、「これからここが良くなるだろう」と少し先を見据え、かなり早くこの地に家を建てました。どのような街になるのかまだ見えていない段階でしたが、父の決断によって私はその地域で小学校から大学まで過ごすことになりました。近くの隣町に学校はあるのですが、川崎市であり、当時越境は許されず、特に横浜市の公立中学校へは、歩いて1時間以上かけて通学していました。舖装されていない道を進みながらブルドーザーやトラックが頻繁に行き来し、土煙を巻き上げる中を通ることは日常でした。部活は、バレーボール部に所属していました。体育館で何気なくバレーボール部の先輩たちが練習している姿を見て、鋭く撃ち込まれたボールをレシーブしている姿にかっこいいと思い入部しました。家が遠いので母親は部活には反対していましたが、迷わず入部してしまいました。練習して少し帰りが遅くなると、電灯もほとんどない場所だったので、夜は真っ暗で危険ですし、雨の日は特に大変だったなと今でも覚えています。バレーボールはとても楽しくて中高大と続けることになりましたので、中1の時、私の目の前で痺れるようなレシーブをみせてくれた先輩に感謝です。大学生になるころには、家の周りの街並みがかなり出来上がってきて、私にとってそれを見るのは楽しいものに変わってきました。道路が整備され、地下鉄ブルーラインの駅舎や、商業施設やマンション、戸建て住宅が次々に建設されていく様子を間近で見ているうちに、この地域でアルバイトをしてみたいと思うようになりました。いくつかアルバイトをしている中で、ある新しい事業にも挑戦している活発な会社がありました。経理の社員さんがきさくな方で、色々話かけてくれるのですが、「資金繰りが大変なんだよ。社長は新規事業を始めるし、君にもバイト代払わないといけないからね。」という話をしてくれて、資金繰りという言葉がとても印象に残り、どうやら売り上げ金を回収するまでの間は、銀行で借入して資金ぐりを繋いでいるや、手形をもって経理の方は銀行によくいくというのを知り、ここで、企業の経済活動を支える銀行の役割というものに大変興味をもったものです。ちょうど大学は明治学院大学の法学部に通っていて、手形小切手法なども授業で聴いていましたが、授業ではさっぱりイメージが湧かなかったものが、少しリアルに理解できるようになっていきました。それまでは銀行は小遣いを預けておくところというイメージしかありませんでしたが、自分が育った港北ニュ-タウンの街づくりにおいても、銀行が果たした役割というものはきっと大きかったんだろうと、アルバイトを通して興味を持ちました。そういう経緯もあって大学3年では、会社というものに関心が湧き、会社法を取り扱っているゼミを選択しておりました。
④ここから社会人の話をします。1994年(平成6年)、さくら銀行(現三井住友銀行)に入社しました。入社後はまず学芸大学駅前支店に配属され、預金業務や融資、外為業務を幅広く学びました。その後、担当先を持ち外回りをするようになり、個人のお客様から法人のお客様まで、多様な二-ズにお応えする業務に携わりました。大切なご資金を預かり、融資やEB等振込等決済機能など提案をする中で、お客様との対話を重ね、銀行の役割は重要だと改めて実感しました。2001年には、さくら銀行と住友銀行は合併をして三井住友銀行となりました。まだ30歳だった私は、文化の異なる銀行どおしの合併に、わくわ〈しました。このころに、今まで法人も個人も一つの支店で全部やっていたのが、金融ビッグバンで、自由化に伴い、投信や保険など、個人に提案できるものが増えて、銀行内も個人部門、法人部門と担当部署が別れていきました。合併後すぐに私に個人部門への異動がありました。旧住友銀行の新宿支店の中にある新宿投資サービスプラザに配属されました。これから力をいれていく個人の資産運用と個人宛融資業務の専門部署で、まさに現在私が所属するエリアの前身となる部署です。旧さ〈ら銀行出身の私以外は、元証券マンか旧住友銀行員でした。最初はシステムがまったく違うのは勿論、使用している業務用語の解釈も微妙にちがっていたりと戸惑い苦労しましたが、やってい〈うちに慣れてきて、貴重な経験となりました。またこのちょうど合併と異動した年に同じ銀行にいた妻と結婚もして、2001年は公私ともに変化の大きい年となりました。妻は旧住友銀行員でしたから、上司に結婚報告した際に、君らも合併だなと言われたのを思い出します。
また2008年には名古屋市名東区での新店舗立ち上げプロジェクトに携わり、課長という立場でゼロから支店を作り上げる経験をしました。横浜の自宅を売却するきっかけとなる転勤でしたが、地元で採用された行員、若手行員が集められ、支店長と私以外にベテラン行員は1名でしたが、リーマンショックによる困難な経済状況下ではありましたが、地元住民の皆様と信頼関係を築きながら地域密着型の営業を進め、5年間かけて軌道に乗せることができました。ここでの経験は私にとって管理職として大きく成長するきっかけとなったと思っています。その後、副支店長で都内の支店を経験したあと支店長となりました。
支店長になって今年で6力店目の10年目となります。現在は吉祥寺支店の支店長であるとともに武蔵野エリアを統括をする仕事も兼務しております。武蔵野エリアが統括している支店は6ケ店あります。吉祥寺支店、三鷹支店、武蔵境支店、小金井支店、浜田山支店、永福町支店です。預金やローン、資産運用、相続手続きなど、この地域のお客様の様々なご相談を承っております。何かあれば、なんなりと相談していただきたいと思います。
私が銀行に入社したときと比べて、世の中とともに銀行業界も店舗のあり方、特にデジタル化やキャッシュレス化を進め変わろうとしていますが、変わらないものは「お客様と信頼関係を築き、お役にたつこと」です。引き続き頑張って参りたいと思います。
このロータリークラブの皆様とのご縁を大切にして、色々学び、貢献し、私自身としても成長を遂げたいと考えています。これからよろしくお願いいたします。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。