活動報告

私たち東京武蔵野中央ロータリークラブは、さまざまな職業のメンバーが
その経験と知識を生かして社会奉仕活動や人道的活動に取り組んでいます。

「メンバーズデー(9月)」(2025/9/11)

その他の活動

メンバーズデー(9月)につき、”9月のお祝い”と、”会員スピーチ”をおこないました。

*9月のお祝い(会員誕生日、ご夫人お誕生日、ご結婚記念日、その他のお祝い)

おめでとうございます。

*会員スピーチ

「私の職業-福祉建築家として」川村会員(2011年2月入会)

 建築設計とは人・モノ・空間との相関関係で成り立ち、その根底にあるものは‘人に優しいモノづくり‘であり、‘人に優しい空間づくり‘であると考えている。

 ‘人に優しい‘ 建築の出会いは、大学院研究室での重度障害者が遠隔操作機器を使い介護に頼らない自立した生活ができる実験住宅の設計研究から始まった。今から50年も前のことであり、テレビのリモコン、ウォシュレットトイレ、電動車いす、電動リクライニングベット、車いす用システムキッチン等々当時としては住空間に先端技術を持ち込み、身体障害者のための機器操作による生活実験住宅であった。種々の失敗もあったが、今日ではこれらの道具・機器は一般家庭の中では当たり前の‘モノ‘となっている。

 1981年に国連が定めた‘障害者の社会参加と平等の促進をめざす「国際障害者年」‘を機にわが国でも‘福祉のまちづくり条例‘や‘バリアフリー法‘等のルール作りの研究が始まった。

 日本建築学会ハンディキャップ小委員会委員として、イギリスをはじめバリアフリーの文献、資料の研究調査を行い、我が国のルール作りの作成に当たったものの、障害者の実態を把握することはできなかった。

 イギリスの福祉建築研究者が「障害者に使いよいものは健常者にも使いよい」との言葉を実践するため、武蔵野市内・地域の障害者団体とのつながりを得て、重度身体障害者の家庭と住環境の実態を知った。家の中で車いすが動かせるスペースがなく段差との障害の中で手摺を一つ付けてあげることが障害者の生活拡大と介護者負担軽減となる実態を知った。

 市内に住む重度障害者とその親たちが親亡き後の不安から「重度肢体障害者共同生活寮を作る会」の立ち上げに加わった。今で言う‘グループホーム‘の先駆けだが、月1回の古紙等の廃品回収事業、母の日等に行った吉祥寺ロンロン(現アトレ)中央ホールでの花束売り等で施設資金作りを手伝った。

 当時、車いすで街に出ることは至難の業であった。駅の階段、歩道の段差と幅、トイレ等々車いすの街づくりに対しては、全く市民権を得ていないも同然であった。共同生活寮を造る会メンバー、視力障害者、ボランティア総勢40人余りで武蔵境駅から吉祥寺駅・商店街・五日市通りまでの点検を行い、車いす街歩きマップ作のための貴重な現場調査を行い、市の街づくりに協力した。

 ‘人に優しいモノづくり‘と‘人に優しい空間づくり‘は、まず‘人に優しい‘理解と認識から始まると考えている。すべての人が五体満足で生まれるとは限らずかつ生涯年齢のどの過程でも私たちは何らかのハンディキヤップを持っている。これは身体的ハードな側面だけでなく、精神的ソフトな側面でも同様である。両手が無くても足指を使いまた義手を使い調理や食事をすることができる。視覚障害者は視覚以外の聴覚、触覚、嗅覚、記憶力等の全機能を研ぎ澄まし自立生活を送っている。これらのハンディキャップを補助するモノ(補助具・機器)と適切な空間を得ることにより、‘人に優しいモノづくり‘と‘人に優しい空間づくり‘の設計が可能となる。                      

‘人に優しいモノづくり‘として年齢や障害の有無に関わらず誰もが利用しやすいモノづくり・環境づくりを共有化してゆく社会が1980年代から世界的な運動として始まったのが「ユニバーサルデザイン」である。頭部可動が不自由な人にジャバラ付ストロー、目の不自由な人にシャンプー・リンス容器の区別、牛乳紙パックの区別、聴覚障害・難聴の人にとってのTV画面等の字幕等、我々の日常生活のモノ・道具に対しどのような人にとっても不都合さを感じさせない便利なモノづくりと環境が必要となる。

 ‘人に優しい空間づくり‘は人とモノに対する相関関係の延長上にある。ドアを通過するとき健常者は身体の幅程度のスペースがあればよいが、車いすという道具を利用する障害者は車いすの幅プラスアルファのスペースを必要とし、かつ直角に曲がる場合には車いす長さの1.5倍以上のスペースを必要とする。

 福祉建築設計への文献研究から障害者の身体機能と日常生活実態を知ることで、障害者を含め地域に生きる人々の住空間づくり、街づくりを計画する機会に恵まれた。1980年 市内の障害者の職業訓練・リハビリテーションの拠点となる「武蔵野市障害者福祉センター」の設計を手掛け、1989年心身障害者がビン・缶をリサイクルする作業施設として 「東村山市リサイクル作業所」、1991年市内中学校に併設する重度重複障害児・者のための「武蔵野市立第四中学校いぶき学級」、1993年肢体不自由児・成人通園施設として「東村山市あゆみの家-2」、1996年阪神・淡路大震災の同時期ではあるが少人数単位の高齢者施設と通所訓練施設併用の「武蔵野市吉祥寺南町特別養護老人ホームゆとりえ」、1999年「三鷹市牟礼老人保健施設はなかいどう」の設計を手掛けた。2006年には長年に渡り資金集めに参画した親なき後の施設「社会福祉法人武蔵野 重度身体障害者グループホーム レンガ」の設計・建設が実現した。

 ロータリークラブを創設したポール・ハリスの言葉に「社会に役立つ人間になる方法はいろいろあるが、最も身近で効果的な方法は間違いなく自分の職業の中にある」と謳っている。地域に生きる建築家として、住みよい街づくり・住環境づくりに微力ではあるが関ってきた。しかしながら、‘福祉のまちづくり条例‘では公共施設・公園等で見かける車いす利用者トイレ(現在「だれでもトイレ」と命名されている)が孤立された建物としてポッンと建っている。しかしながら、ユニバーサルデザインの理念に立てば健常者と障害者の区別なく共に利用できるモノと空間づくりがマニュアル化されなければならない。

 建築設計は人・モノ・空間との相関関係であり、幼児から高齢者やハンディキャップを 持つ人々に寄り添った優しいモノと空間づくりの環境を建築家は進めなければならず、 住環境づくりはその根幹にあるものと考えている。そして私はロータリーが掲げている「職業奉仕」の理念を今後も実践して行きたいと考えている。

「メンバーズデースピーチ」岩井会員(2015年7月入会)

本日はメンバーズデ-という事でお時間をいただきありがとうございます。

さて私がロータリーに入会したのは2015年7月で53歳の時でした。現在63歳で入会歴は10年でございます。入会歴10年とすぐ分かるのは、入会と娘が生まれた年が一緒だからです。

職業分類は建築請負業でスポンサーは、すでにご逝去された石引さんです。石引さんはUR(住宅公団)の仕事をしていて、元請と下請の関係で入会しました。

入会前までは趣味のバドミントンに夢中で、競技者としてやっていました。シニアの全国大会で優勝することを目指していました。バドミントンの練習は1週間ほぼ毎日、練習場所は主に武蔵野四中、実業団仲間の横河電機さん、上村さんのいるNTT通研さんでした。以前会員だった大津さんの時に体育館が撤去されるまでは毎週日曜日に通っていました。50歳の時、東京都ダブルス大会で優勝して日本マスターズの代表として全国大会にも出場しました。

仕事は、大学を中退して20歳で建築業界に入りました。木造住宅を請負う小さな工務店でした。最初は、その仕事が好きで始めたわけではありませんが、だんだん仕事が面白くなり、夢中になっていました。ですが真面目な性格が災いして、ストレスで25歳の時に、激痩せして、体調を壊し電車にも乗れなくなりました。現在でも飛行機に乗れなくなったのはそれが原因です。しばらく病名が判らず、健康の為に中高の部活でやっていたバドミントンを始めました。そこからバドミントンが一生の趣味となりました。その頃は本気で死ぬかもしれないと思っていたので、生命保険に加入し、提携の医院で検査を受けることになりました。そこで1年以上も、何人もの医者に診てもらったのに分からずにいた病名が、簡単に判明しました。甲状腺ホルモン異常ということで、「女性に多い病気だよ。薬ですぐ治りますよ」という診断でした。その時の老先生には感謝です。

病気も治り27歳の時、未経験者の友人2人と300万円出資して有限会社を設立しました。時期は1990年バブル崩壊で不景気、見込み客ゼロでスタートしましたが、1年間は運営できる資金があったので、その間になんとかなると思い独立しました。今思うと無謀です。ただそうこうしていると、友人の会社で多能工の協力業者を募集しているという話がありました。そこが住宅公団の仕事をしている東京住宅サービスさんで石引社長が経営している会社でした。そこで仕事を覚えながら、少しずつ仕事をいただくようになりました。団地の仕事は主に空屋の現状回復で、当時は一工種ごとの仕事量が少なかったので、クロス・フローリング貼り・設備工事・ガラス工事・清掃工事といったものを分離発注せず、一人で全部こなす多能工スタイルでした。

また武蔵野市の入札工事・URの入札工事なども請負っていましたので、私も資格が必要になると思い、一級建築士・1級施工管理技士・土木、造園2級管理技士、給水装置主任者、宅建主任者などの資格も取得しました。それから50歳頃までは5~6名の会社でURをメインに仕事をしていました。

その頃、講演会で事業承継の話を聞き、会社の将来を真剣に考えないといけないと思うようになりました。そして決断して、現場を離れて経営に専念しようと思いました。それまでの作業服からスーツ姿に変え、現場には出ないようにしました。初めて経営計画書を作ってみて、その項目の中に従業員の平均年齢という項目がありまして、計算してみると45~46歳でした。衝撃を受けまして、今後は若い社員も入れて持続可能な会社にしなくてはいけないと思いました。業務拡大の為にLIXILリフォームショップに加盟しまして、本格的にエンドユーザーをターゲットにした営業を開始しました。

そして2023年度には顧客満足度全国第1位を受賞しました(加盟店550店舗中)。会社の入口の横にその垂れ幕が張ってあります。

建築リフォーム業界の現状としては、2024年GDPは約600兆円、建設31兆円、そのうち水回り設備改修・耐震耐熱改修・内装工事・外壁塗装・その他工事と合わせてリフォーム・リニューアルは約6兆円産業です。リフォーム専門店の多くは4名~5名で水回り設備改修をメインにしています。雨漏り修理は受けない(技術力が必要)、受注額1000万を超えるものは受けない(社員が1~2ヵ月常駐になる)ということで、手離れが良い350~500万円のユニットバスとキッチン交換改修をターゲットにしています。どこのリフォーム店もここをターゲットにしているので、競争が激しくなっております。

木造住宅の耐震につきましては、昭和56年(1981年)以降に新耐震で建てたものの倒壊率は40%、それから技術向上で1999年までに倒壊率20%まで減少、2000年(平成12年)に法改正があって、地盤の検討でベタ基礎を行なうようになってからは、倒壊率1%以下になっています。2000年以降の木造住宅であれば、まず倒壊しない、安心して生活して大丈夫ということです。

木造以外の耐震ですが、当時懇意にしていた設計屋さんから壁の倒れ調査を手伝ってほしいと言われました。構造は小屋組には木造のトラス、壁は6m積み上げられた大谷石(構造体には適さない)でできた小体育館のような建物で麻布にある教会でしたこの大谷石の壁が傾いてきているというので、1年に数回調査するという仕事でした。私が行ったときは外側に傾きが5mm/6000mm、2回目は10mm、そして地震があったときは20mmと傾きがだんだん大きくなっていきました。そして運命の日、大きな地震が来たので、次の日現場へ行くと・・・ご清聴ありがとうございました。